国際景徳鎮試験場

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刑場に思う

北京時代、仕事やレッスンの帰り道二つの刑場跡をよく通り抜けました。

一つは紫禁城の午門。ここは時々レッスンの帰りに故宮を裏から抜けてきて通るのですが鞭打ちの行われるところでした。そこから天安門広場を横切って市中を南下して「菜市口」に抜けて家に帰るのですが、この「菜市口」が斬首の場所で昔から幽霊が出ると言われるところでした。北京が平屋しかなかった時代のことです。共産党の時代を経て当時の空気や痕跡はほとんど感じられません。

仙台時代は評定河原と言うところに住んでいました。ここは広瀬川の河原で伊達家の墓所の川向に当たり、魯迅先生の下宿先や東北大学の近くになります。ここも刑場とは聞いて知っていました。

岩手に来て17世紀の西日本から移動してきたキリシタンと地元での新たな入信者の数に驚かされました。まだ正確な原典に当たっていないのでここでは言えませんが、およそ当時の人口から言うとよほどのことが無い限り岩手旧伊達領民はみなキリシタンであったであろう勢いという数であることです。もちろん胆沢の伊達家の山林から隠れ越境して南部領にもキリシタンはあります。

岩手の人とキリシタンを話すと、「ああ、宮城県境の大籠あたりにあったらしいね」と言われてしまうのですが、岩手県南はそちこち森を歩けば刑場やキリシタンが大量に埋められた塚に行き当たります。鉱山の連なる山を歩けばキリシタンの遺跡があちこちにあります。キリシタンの心霊写真が展示してある資料館まであります。。全国第二位の大きさを誇る胆沢扇状地の豊かな実りはキリシタンの開鑿した長大な堰とトンネル用水路に由来していました。またこの地で捕縛された宣教師は仙台の評定河原まで素足で歩かされ、川面で拷問で責められた後に処刑されました。この地の人たちは伝統的にどんな人でも必ず面倒でもユリの花だけは刈り残します。食えないものは何も愛でない土地柄でユリだけは別格なのは恐らくマリア信仰の由来が慣習に残って無意識で伝えられてるのだと思います。救荒植物としてユリを収穫して食べるわけでもなく、とにかく愛でるのです。老婆が鎌を手に峻嶮な斜面をユリだけ残して刈りこんでいる風景に今でもよく出会いますが、不思議な光景です。

遣欧使節支倉常長領、同じくキリシタンの後藤壽庵領もこの地にありました。

キリシタンエリアは今でもとても閉鎖的な空気が支配します。

ところが、旧衣川村の芦名領など領主が意識的に藤原時代の仏教精神を受け継いだところは重苦しい岩手県南にあって空白のように人がオープンで誰とでもよくコミュニケーションをとります。

家制度や催事にも周辺と全く異なる文化を有して、もちろん刑場もありません。

歴史地図を見るとだいたいキリシタン遺跡の無いところとあるところがくっきりしていますが、それは今日でも土地の人柄に重なることが分かりました。

衣川の人たちを周辺の人たちは「お人好しな田舎者」といったニュアンスで「ころが」と言って揶揄しますが、これはオープンな気質が「問題行為」に見える周辺地域の習慣と気質がそう呼ばせるものだと感じます。

しかし呑気な衣川こそ仏教での平和な国づくりを標榜した奥州藤原氏の精神と遺民を受け継いだ地域なのです。鎌倉に攻められた平泉の人々は奥州山脈、北上山地の山懐奥へと逃げ込みました。そのなかでも偶々戦国大名の名門、没落した芦名氏が伊達家に惜しまれて配置されてきたのがこの衣川でした。芦名氏は藤原三代に私淑して末代まで領民を大切に明治を迎えました。

一方で見せしめの刑場や塚を置かれて400年も露見を恐れる生活を余儀なくされ長きに厳しい内部からの相互監視と外部からの搾取が続けば自ずから呑気な「ころが」と周辺地域の気質の違いは生まれてくるものです。

平泉の世界遺産は一関市と平泉町に跨がっていますが、荘園や寺など遺物としては間違いありませんが、平泉の寛容と平和の精神性を残していると感じるのは、やはり一貫して仏教が根付いてきた奥州市の衣川地区とその人々だと感じます。

「都会出の人たちには無理はできねえべ、顔だけ出してくれればオラたちが草刈りでもなんでも専門だからよー、心配すんな」なんて優しい言葉に溢れているのはここだけなのです。村八分と言う言葉もここにはありませんでした。海外から嫁に来た人たちが「いじめる」という日本語を知らないのが証拠です。「イジメル何ソレ?」と言われます。

刑場は今の私達の暮らしに影を落としています。